雨上がりは虹を探して 1.沙江の場合

沙江の場合

カラ、コロ、コローン、とウッドベルが鳴る。浮かない顔で入って来たのは沙江。
月子は、“いらっしゃい”と、いつものように温かいおしぼりを出す。
「あ~、この温かいおしぼりに癒される。化粧さえしてなかったら顔も拭きたいとこや。首まで拭く世間のおっさんの気持ちがようわかるわ」
と、言いながら、はあ~とため息をついてカウンターに突っ伏す。
月子の淹れる珈琲の薫りと、コトコトと沸き立つポットの音が沙江を包み込む。
「おまたせしました」
と、沙江が以前“惹き込まれるような緑色ね”と言っていた美濃焼のカップを差し出す。
「きゃーっ、このカップ大好き!」
と、笑顔になった沙江が、焦げ茶色の液体をを一口飲んで、
「あ~ほっとするわ~」
としみじみ言いながらカップを愛おし気に両手で包み込む。
月子はさすがに笑いそうになりながら、
「お疲れね」
と声をかける。
「うん、疲れてる。なんでこんなに疲れてんのか自分でもわからんけど疲れてる。特になんかあったって訳でもない、至っていつもと変わらんのに」
と、沙江。
月子は、自分のために買い置きをしているチョコレートクッキーを二枚、木の葉形の小皿に乗せて沙江の前に置いた。
“有り難う”と言って沙江が続ける。
「私ね、この街に来てもう30年になるんよ。生まれ育った場所よりも長く暮らしてる。さっき、ふと気づいたわ。自分でも知らん間にすっかり都会人になっちまったなって。そしたら、愕然として…」
と肩を落とした。
突然我に返ったとでも言いたげなその落胆ぶりに笑いそうになりながら、
「どんなところが“都会人”になっちまったの?」
と、月子が訊く。
「時刻表を見なくなったことね。そして、家からタクシーを呼ばなくなったこと」
と沙江が答える。
「昔、田舎に住んでた時は電車が、いやあの頃は“汽車”って呼んでたけど、その汽車が一時間に一本くらいしか走ってなくて、うん、きっと今も。だから、必ず時刻表を見て駅に行ってた。タクシーに乗る時は、みんな自宅からタクシー会社に電話をかけて来てもらってた。それが当たり前だった。だけど、ここに来てからは時刻表を見たことがないことに気付いたんよ。だって、駅に行けばすぐ電車に乗れる。もし目の前で出てしまっても、10分程待てばすぐ次の電車が来る。タクシーだって…ほら、いつだって道で拾えるやん」
と、沙江。
「ここでは、タクシー拾えないけど」
と、月子。
「ここは特別。だって、六甲山の山の中やん。敢えて都会のなかの“都会じゃない場所”を探して、今日もこうして来てんねんから」
と沙江。
そうだ、ここは都会のなかの“一見、都会を感じない場所”だ、と月子も納得。
「でも、時刻表を見なくなったことやタクシーを道で拾うようになったことが、そんなに愕然とすることなん?」
と月子。
「すっかり都会に毒されたな~って思ってね」
毒された、という表現にまたもや月子は笑いそうになりながら、
「都会人になることはあかんことなん?」
と月子。
「あかんことない。あかんことはないけど、ええことでもない。今までそんなん思ったことないけど、今はそう思う」
と、沙江は言った。

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